茜木温子
「いらっしゃぁ〜い」
いつもと同じように函館朝市にある茜木鮮魚店の店先には元気な声が響きわたる。
「あっちゃん相変わらず元気だねぇ」
お店の隣のおばさんが気さくに声をかけてくると、温子は満面の笑顔を浮かべながらVサインをおばさんに向ける。
「えへへぇ、元気がないとここに並んでいる魚たちがかわいそうだよ、威勢を良くしないと魚たちの鮮度が落ちちゃうでしょ?」
そう! 魚屋さんは威勢がいいのも商売のうち! お父さんが昔そう言っていた。
「あんたねぇ、そんな事を言っているからいつまでたっても『はねっかえり娘』って言われるんだよ、もう少し自分の身体も気にしたらどうなんだい?」
店の奥からこのお店の大女将であるお母さん――早苗――が苦笑いを浮かべながら出てくる。
「実の娘にそんな事を言うかなぁ、こう見えても立派な『奥様』なんですからね?」
温子は頬をぷっくりと膨らませながら早苗の事を睨みつけるが、そんな事関係ないとばかりに早苗は手でハエを追いやるようにしっしと動かす。
「あんたが奥様だなんて、笑っちゃうよ? まだまだ危なっかしくってお店を任しきれないんだから……旦那も苦労しているんじゃないかねぇ」
キヒヒと嫌味っぽく笑う早苗に対してさらに温子の頬は膨れ、まるでふぐと競り合っているほどでは? というまで膨れ上がる。
「そんな事ないもん! あの人だってあたしの事をちゃんと『奥さん』って紹介してくれるもん! この前だって……」
あの人は、いつも友達にあたしの事を『奥さん』と紹介してくれる、あたしはそれだけでも大満足なのに……。
「だいぶお腹が目立ってきたね? 予定日はいつだったっけ?」
おばさんはすごく優しい目であたしの少し大きくなってきたお腹をそっと見つめてくる。
「ウン、来月の初め……」
そう、あたしのお腹の中には、あの人との間に授かった大切な命が……そう、愛の結晶である赤ちゃんがいる。
「そっか、二人の愛の結晶よね?」
「お、おばさん……そんな言い方しないでよ……ちょっと恥ずかしいかも……」
自分の事を棚上げしておきながらけれど、人に言われると少し恥ずかしいわよね?
「アハハ、恥かしがる事ないわよぉ、うちのダメ亭主とだってそんな時代があったんだから」
おばさんは、楽しそうに、でもちょっと恥ずかしそうにそう言いながら店先でトロ箱を直しているおじさんの事をチラリと見る、その視線は信じきっているような、頼もしそうなそんな感じがする。
「そうかぁ……あのあっちゃんがねぇ……お母さんになるんだもんねぇ? あたしも年を取るわけかぁ……認めたくないけれど」
感慨深げな顔をしながらおばさんがあたしの事を見つめてくるけれど、それは本当に嫌そうな顔ではなく、どことなく祝福されているようなそんな気になる笑顔だった。
「仕方が無いだろ? あんただって年を積み上げているんだから……あたしなんてこの子が生まれたらおばあちゃんになっちゃうんだよ?」
お母さんはそう言いながらあたしのお腹に同じような優しい視線を向けてくる。
「アハハ、違いないねぇ……あれ? そういえば旦那はどうしたんだい? 昨日から姿が見えないようだけれど」
おばさんは無遠慮に温子の顔を覗き込んでくると、それに気圧されたように温子は一歩引く。
「あっと、ウン、ちょっと小樽の友達の所に用事があるっていって昨日から出かけているのよ」
その旦那は昨日から小樽にいる友達の所に出かけるといっていた。
「へぇ……オンナ……かな?」
意地の悪い顔をしておばさんが温子の顔を覗き込むと、温子は高らかに笑い出し、おばさんは呆気にとられたような顔をする。
「アハハ、違う違う、大学時代の友達で、あたしも知っている人よ」
手を大げさなまで振りながら温子はそれを否定する。
ちゃんと昨日確認したもん、携帯に電話したら男の人と一緒だったし、女っけは感じることはなかった……えへ。
「だったら……ススキノとか……」
「おばさん、何で旦那がそっちに話を持っていくのいよぉ、それもありません……確かにススキノには行っていたみたいだけれど、お酒を飲むので行っていたの! もぉ」
温子が頬を膨らませると、おばさんはケラケラと笑い温子に頭を下げる。
「冗談よ……それにしても旦那も結構呑気ね? あっちゃんが身重だって言うのに」
その質問に対しては早苗が温子の台詞を代弁する。
「なんだか小樽にある硝子工房に、その友達の知り合いがいるらしくって、旦那がなにかを頼んでいたらしいよ?」
そう、何を頼んだのか聞いても旦那は『ちょっとね?』なんてはぐらかされて詳しくは教えてもらっていない。
「そうなんだ……そうだ、早苗ちゃん、お客さんに美味しいおせんべいを貰ったの、うちに来てお茶でも飲んでいかない?」
「ちょ、ちょっとお母さん、お店はどうするのよぉ」
ニコニコしながら隣のお店に姿を消そうとしている早苗に対して温子は慌てた顔をしてその背中に声をかける。
「大丈夫よ、どうせこんな雪じゃお客もそんな来ないわよ……お互い様ね?」
そういうおばさんを見送りながら温子はお店の前を見つめる。
はぁ、確かにそうかも……。こんな雪じゃぁねぇ……。
視線を落とす店先の道はアスファルトの黒い所が見ることができないほど雪で覆われ、それは通り抜けてゆくタクシーや車で圧雪になっており、少し汚れた雪を隠すように粉雪が降り続いて所々に白い層を作っている。
「若女将、そんな所にいないで温かい所で休んでいてくれよ、そんな身体で風邪なんてひかれたら若旦那に怒られちゃうぜ」
店先でトロ箱を片付けている源さんが温子に声をかけてくる。
「ウン、ありがとう源さん」
そういえばちょっと身体が冷えてきたかしらね? なんだかお腹の中の子たちも抗議するように動いているような気がするかも……。
温子はお腹の中でウネウネと動く赤ちゃんの感覚に顔をほころばせながら、休憩室に上がる階段に足をかける。
「どっこいしょ……って嫌だなぁ」
ストーブの上で湯気を出しているやかんから湯を注ぎ、湯飲み代わりのマグカップをそっと持ちながらお腹をかばい椅子に座るとつい温子の口からそんな言葉が漏れてしまう。
ちょっとおばさんチックかも……。
誰が見ている訳では無いけれど、つい周囲を見回して一人頬を染めながら温子はお茶の入ったマグカップに口を付ける。
旦那が大学時代に使っていたマグカップ、お腹をかばいながら椅子に座るとき普通の湯飲みじゃ大変だからといって、荷物の中から探し出してくれたのよね?
熊の絵が描かれたそのマグカップの後ろには『函館』の文字が書かれており、それが温子と出逢った時に買われた物という事を証明している、
あれから三年……あの人があたしと一緒にこのお店で働くなんて……そうして、あの人との結晶が……。
温子の視線が大きく膨らんだ自分のお腹を見ると、その視線に答えるかのように再びウネウネと動くまだ見ぬわが子に微笑をこぼす。
「温子いる?」
トントンと階段が音を立てたかと思うと扉が開き、一人の女性が顔を見せる。
「京子? どうしたの一体?」
京子は人差し指でかけているメガネをクイッと直し、温子のその姿を見つめ嬉しそうな表情の中にも驚いたような複雑な表情を浮かべる。
「久しぶりに函館に来る用事があったから顔を見せに来たのよ……それにしても、しばらく見ないうちにあんた太ったわね?」
ちょ、ちょっとどういう意味よ!
意地の悪い顔をしている京子に対して温子は舌をベェッと出す。
「もぉ、京子ったら……いつ日本に帰ってきたの?」
札幌で知り合った彼女は、旦那の高校時代の友達の彼氏、変な繋がりに意気投合してよく連絡を取ったりしていたが、大学卒業と同時に彼女はハリウッドに移った。
「ウフ、一昨日帰ってきて、昨日函館に入ったの」
コートを脱ぎながら京子はその長い髪の毛をかき上げる、その仕草に同性ながらちょっと女の色気を感じる。
あたしも髪の毛伸ばそうかしら?
ポヤッとした顔をして動きを見ている温子に気がついた京子は首をかしげる。
「あぁ、なんでもないよ、でもなんでわざわざ函館なんかに?」
お茶を入れようと腰を上げようとする温子の肩を、京子はポンと叩き再び腰掛けるように促し、自分でストーブの上のやかんに手を伸ばす。
「ウン、前に函館で撮った作品が今回の映画祭でゲスト作品として上映されることになって、それの挨拶に来たのよ」
京子はやかんのお湯を急須に注ぎながらそういうが、その横顔はちょっと赤らんでいるようにも見える。
「もしかして前に言っていた彼と一緒に撮ったやつ?」
温子のその一言に京子の顔は一気に赤くなり、やかんが上げている湯気がまるでその頭から上がっているようにも見えるほどだ。
照れてるぅ〜、可愛い。
意地の悪い顔をした温子に対して京子はシドロモドロになりながら視線をあちこちにせわしなく動かしている。
「ま、まぁ、結果的にそうなっただけで、あたしが頼んで一緒に撮ったわけじゃないし、でも、あの人の助手として動いてくれるとやりやすかったから結果的に……そう、結果的にそうなっただけよ」
あの人ねぇ……ふぅ〜ん。
相変わらず意地の悪い顔をしている温子に対して京子は頬を膨らませているが、やがてその温子の服装を見て優しい顔をする。
「似合っているね、その格好……」
旦那の大き目のシャツに友達から貰ったグリーンのマタニティードレス、貰い物ばかりであまり自慢できる格好では無いわよね?
「アハハ、そうかな……あまり可愛い姿じゃないと思うけれど……」
妊娠して胸が大きくなって少し嬉しかったけれど、お腹が大きくなっちゃって自分の足元は見えないし、あまり可愛らしい格好とは思えないわよ?
「ううん、格好と言うのはそう言う意味じゃないわよ、そうね……母親らしい姿と言うのかしら? 見ているこっちまで幸せになっちゃう」
京子は指で四角くファインダーを作りそこから温子の様子を見ると、そこには無意識にお腹の下に置かれている腕、その反対の手も無意識になのであろう、お腹をなぜていることに温子は初めて気がつく。
「う〜ん、そうかも……つわりが酷かった時は『何で女だけこんな思いをしなきゃいけないの?』って旦那にわがままを言っていたけれど、お腹の中で赤ちゃんが動くたびになんだか幸せな感じがするかもしれないなぁ?」
温子はなぜているお腹に視線を向けて微笑むと、京子のため息が聞こえてくる。
「はぁ、いいわね? あたしもいつかは……」
京子はそう言ったかと思うと顔を赤らめる。
「いや、ち、違うわよ、あたしは映画を撮っているときが一番幸せだから今はまだいいわよ!」
「用事は済んだの?」
店じまいの準備をしながら温子は携帯を片手に持つ。
『ウン、もう長万部まで来たから、あと二時間ぐらいで着けると思うよ』
電話の向こうは小樽に行った旦那から。
「あんまり急いで帰ってきて事故なんて起こさないでよね? 雪降っているんでしょ?」
雪道に慣れたとは言っても、もともと内地の人間、雪道の怖さを知るにはまだまだ経験不足だと思う。
『わかっているって、我が子の顔を見るまで死ねないよ』
「嫌な事言わないでよ……心配になっちゃうでしょ?」
温子の顔が曇る。たとえそれが冗談だとしても、そんなことを想像なんてしたくない。
『ゴメン、まぁ安全運転で早く帰るようにするよ』
旦那は素直に謝りながら携帯を切る。
「旦那今どこだって?」
大きな荷物を持ちながら早苗が温子に声をかけると、ニッコリと微笑みながらさっき旦那が言っていたその地名を告げる。
「そうか、だったら夕食は一緒だね、買い物をどうしようかな……」
夕食の献立を考えるように早苗があごに指を置く。
「あたしが行って来るよ、どうせここにいたって邪魔者扱いされるんでしょ?」
お腹が大きくなってから大きな物は持てなくなるし、足元のトロ箱に気がつかないでつまずく事もしばし、特に雑然とするこの時間は店の中で動くことを旦那に止められており、結果仕事の邪魔になるような格好になる。
「良くわかっているじゃないか、早めに買い物を済ませて旦那の好きな物でも作ってやりな」
不器用にウィンクする早苗に苦笑いを浮かべながら温子は自宅近くのスーパーに向かう。
「何にしようかしら……」
スーパーのショーケースを覗き込みながら旦那が喜びそうな食材を物色するが、なかなかそのメニューが温子の頭の中で固まらない。
肉ジャガにしようかな……豚肉も今日安いみたいだし、ジャガイモは鎌田の家から送ってきたのがあったはずだし。
「温子ちゃん?」
「エッ? きゃっ!」
精肉売り場に足を向けようと踵を返した所で声をかけられ、足がもつれつまずきころびそうになると、弾力のある胸に抱きかかえられる。
「危ないなぁ……相変わらずそそっかしいね? でも気をつけたほうがいいよ、一人だけの身体じゃないんだから」
慌てて身体を起こすとそこに立っているのは丸顔にメガネをかけ、優しい微笑を浮かべている男性が温子の事を見つめている。
「佐々木君!」
旦那の高校時代の友達、彼をこの街に導いてくれたあたしからするとキューピットみたいな人だけれど……キューピットにはちょっと程遠いかしら?
「久しぶり、でもその身体でころぶと危ないから気をつけたほうがいいよ?」
ニコニコと笑顔を絶やさない佐々木は心配しているのであろう、温子の持っている買い物カゴを取り上げる。
「ありがとう、でも大丈夫だよ」
温子はそう言いながら佐々木から再び買い物カゴを受け取りながら微笑むが、その瞬間お腹に違和感を覚える。
あれ? なんだかいつもと違う……ッ。
いつものようなお腹の動きとは違う、まるでお腹の中で赤ちゃんが暴れているようなそんな感じがしたかと思うと、急にお腹が痛み出す。
「本当に?」
佐々木が温子の顔を覗きこむとその顔が一気に強張る。
「……痛い……お腹が……」
佐々木が覗き込んだその温子の顔は苦痛に歪んでおり、やがてお腹を押さえながら力なくその場に座り込んでしまう。
「ちょっと温子ちゃん! すみません! 誰か救急車を!」
佐々木は温子の肩を抱きながら、周囲にいる人に声をかけるのが温子の頭の中に響きわたる。
どうしたというの? まだ一ヶ月あるのに……まさか……。
苦痛の中で温子が思い描いた結果は最悪のこと。
そんなのいや、あの人との赤ちゃんが……そんなのいや!
「いや……赤ちゃんが……」
うめきながら言う温子の耳に救急車のサイレンが聞こえてくると同じくしてその意識が薄らいでゆく。
ピーポーピーポー。
苦痛に再び意識が戻り、目を開けると機械に囲まれサイレンの音が聞こえてくる。
「奥さん大丈夫ですから、もう病院に着きますからね?」
白いヘルメットをかぶった初老の救急隊員は安心させるように温子の手を握る。
「赤ちゃんは? あたしとあの人の……」
その声は騒音にかき消されたのか、それとも意図的になのだろうか誰も答えることがなく、それに温子は強い不安に駆られる。
「こっちに! あなたが旦那さんですか?」
救急車の扉が開くと同時に温子はそのまま病院の中に連れ込まれるが、それまでのお腹の痛みはいくらか治まったものの、鈍い痛みがまだ残っている。
「いえ、僕は旦那の友達で……」
佐々木の困惑したような声が遠くから聞こえてくる。
「先生!」
温かい診察に入り込んだ途端に女性看護師の顔が温子の顔を覗きこみ、その周りでも看護師があわただしく動き回る様子が空気で伝わってくる。
「ふむ……」
看護師に変わって医師が温子の顔を覗きこみ温子の顔を見ると少し面倒臭そうな顔をして、その顔がすぐに消える。
「すぐに分娩室へ」
分娩室って……生まれるの? まだあと一ヶ月あるっていうのに?
一体何が起きているのかわからないまま温子は不安を抱えたままストレッチャーに乗せられ、ガラガラと手術室のような部屋に連れ込まれる。
「こっちだ!」
薄暗い病院の廊下を走らないように、でも急いた気持ちを抑えることができないように競歩のような歩みを進めると、長いすに腰掛けていた影が手招きする。
「佐々木!」
連絡をくれた高校時代の友人は、ホッとしたような顔をして俺の顔を見つめてくる。
「間に合ったみたいだな」
佐々木はそう言いながら俺の腕を引き、分娩室とかかれた病室の扉をノックする。
「旦那……早く入ってきな」
ノックされたその部屋から顔を見せたのは、手術服のような青い服を着たお義母さんで、慌てたように俺の腕を引きその部屋の中に引きずり込む。
「先生旦那が……その娘の亭主が来たよ」
その部屋には数人の女性看護師と、医師らしい初老の男性がおり、お義母さんの一言にみんなの視線が俺に向く。
「着替えてこっちに来てやりなさい」
言われるがままに手術服のようなものを看護師に着せられ、問答無用という手つきでマスクをつけられベッドの横に連れられてゆくと、そこには憔悴しきったような顔をした温子が横たわっていた。
「温子! 大丈夫か?」
俺の声に、温子はゆっくりと目を開きニコッと力なく微笑むと、再び痛みが襲ってきたのだろうかその顔が歪む。
「もうすぐ生まれますから、旦那さんはそこにいて奥さんを励ましてあげてください」
女性看護師がそっと温子の手に俺の手を添えさせる、その手はよほど息んでいたのであろうかなり熱を帯びていた。
「間に合ってよか……ッ! クッ!」
温子は苦しそうに首を左右に振り、痛いほど俺の手をギュッと握り締めてくる。
「奥さん、もう少しがんばって!」
看護師が励ますように温子の額に浮かんだ汗をタオルでぬぐい声をかける。
「温子、がんばれ!」
助けを請うように握ってくる温子の手は白くなるほど力強く握り締められ、それに対して何も出来ないという苛立ちが自分の気持ちの中に浮かび上がってくると、温子の手の力が不意に抜ける。
「ウン……あたしがんばるよ……あなたと一緒に……あなたがいれば何でも出来る……あなたの子供を生みたい……ッ」
再び温子の顔が歪み、握ってくる手に力がこもってきたかと思うと、その力がまるで空気のように無くなった。
温子?
「ンニャ〜、ホギャホギャ」
カーテンで遮られたその向こうから猫のような声が聞こえてきたかと思うと看護師の歓声が上がる。
「やった、生まれましたよ!」
その声に一瞬頭の中が真っ白になり、反射的に温子の顔を見つめると、ホッとしていたその顔が再び歪む。
「まだだ! もう一人……もう少しがんばってくれ!」
医師の慌てたような声がそのカーテンの向こうから聞こえてくる。
もう一人? エッ?
「クゥ〜! アァッ!」
温子の声が上がり、再び俺の手をつかむ力がこめられる。
「エッ? ナニ?」
その事に対して疑問符を浮かべるまもなく、再び温子の力が不意に抜ける。
「ニィ〜、フギャフギャ」
再びカーテンの向こう側から歓声が上がり、看護師の思いもよらない台詞が聞こえてくる。
「すごい、双子ちゃんですよ!」
双子? って誰が?
おそらく呆けた顔をしているであろう俺に、若い女性看護師が両手を上げ飛び跳ねるように駆け寄ってくる。
「ほら、お父さん、男の子と女の子の双子ちゃんです」
二人の女性看護師が嬉しそうに抱いてきたのは、サルのように顔を真っ赤にして元気よく泣いている赤ちゃんが二人、正直どっちが男の子でどっちが女の子だかわからないけれど、間違いなく俺の子供だ。
「お母さん、ほら、元気な赤ちゃんですよ」
憔悴しきった顔をしながら温子はその赤ちゃんを見ると、ホッとしたような、そうして今までに見た事のない様な優しい笑顔をその二人に向ける。
「良かった……」
温子はそう呟きながら、小さなその手に指を当てると、頬に涙が光る。
「温子……ごめんな、俺何もしてあげることが出来なかった」
ついそんな台詞が出てしまう。目の前で一生懸命がんばっていた温子、それに俺は何もしてあげることが出来なかった、それがなぜだかものすごく歯がゆい。
「そんな事ないよ、あなたは一生懸命あたしを励ましてくれた、あたしが諦めそうになってもあなたが近くで手を握っていてくれたからだから……ありがとう」
温子はそっと俺の手を握り返してくる、さっきまでと違い優しい力で。
「しかし双子とは思わなかったよ」
病室ではお母さんがあたしの顔を覗きこんでくるが、その顔はいつになく優しい微笑を浮かべている。
「旦那もこれから大変だよ? いきなり二人の父親なんだから」
お母さんの一言に旦那は頭を掻いている、その癖はあたしたちが出逢った時からまったく変わっていないわね?
「ご実家には連絡したのかい?」
「はい、明日の朝一の便でこっちに来るって言っていました」
旦那は嬉しそうな顔をしてお母さんに答える。
「お義母さんたちこっちに来るの? 大変じゃない」
旦那の実家は長野県にある軽井沢で喫茶店をやっている、わざわざここまで来るなんて大変じゃないの?
「いいって、初孫の顔が早く見たくって仕方がないんだろ? 親父なんてもうベビー用品買い込んでいるって言っていたし、妹も学校休みだって言っていたし」
ウフ、お義父さんらしいかもしれないなぁ……。
苦笑いを浮かべている旦那を見つめながら温子がため息をつくと、ベビーベッドから泣き声が聞こえてくる。
「俺、部屋を出ていようか?」
あら? 紳士的ね、でも……。
「ううん、もう一人が起きちゃうといけないから……一緒にいて」
半分本当で半分は嘘かもしれない。生まれてはじめて赤ちゃんにお乳をあげる姿をあなたにも立ち会っていてもらいたい、そんな気持ちがあったから。
温子は緊張した面持ちで、パジャマの胸をはだけると旦那の顔が視界に入ってくる。
「やっぱりちょっと向こうを向いていてくれる?」
温子は頬を赤らめながら旦那の視線から胸を隠すようにそっぽを向くと扉が開かれ看護師が入ってくる。
「失礼します……旦那さんおめでとうございます、っと、授乳ですね? 温子さん、どうですかできますか?」
内心ホッとする、本とかでは読んで勉強したけれど、初めてのオッパイってどうやっていいか不安だったのよね?
看護師に教わりながら赤ちゃんの顔を自分の胸に近づけると、誰が教えたわけでもないのに赤ちゃんはその乳首に吸い付く。
「わぁ、飲んでる飲んでる……力強いなぁ……エヘ」
不意にその姿を見ていたら目から涙が零れ落ちてくる。
「温子さん、嬉しいでしょ? その涙がお母さんになった実感がその涙なんですよ」
看護師がそう言いながら肩をぽんぽんと叩いてくれる。
そうかぁ、これが母親になった実感なんだぁ……。
「エヘ……エヘヘ」
温子は赤ちゃんを抱きながらその目を旦那に向けると、その旦那も感慨深い顔をして温子の事を見つめている。
「そういえば小樽に何しに行っていたの?」
不器用な手つきでみかんの皮を剥いている旦那に温子が声をかけるとその手が止まる。
「いけね! 車の中に置きっぱなしだった!」
旦那は慌てたように剥きかけのみかんを温子に渡して病室を出てゆく。
何よ……。
プクッと頬を膨らませながら温子がそのみかんを口に放り込み、それが無くなった頃息を切らせながら旦那が戻ってくる。
「へへ、これだよ……小樽のガラス工房に勤めている人が作った作品なんだ」
自慢げに小鼻を膨らませながら言う旦那は勿体つけるようにその箱を開き、その中からは綺麗な色をしたグラスが出てくる。
「綺麗なグラスね? これは……もしかして」
そのグラスの模様はまるで……。
「そう、二人で見たよね? 知り合いがこんな作品を作ったって聞いたらどうしても欲しくなっちゃって……ゴメン不安な思いをさせちゃったよね?」
目の前にあるその光り輝くそのグラスの模様を見て温子はあの時の事を思い出す。
わざわざその為に慣れない雪道を車で走って小樽まで行ってくれたのね?
その煌きは、あの時見たものと変わりなく、その煌きに温子の気持ちはときめく。
「ウフ、あなたへの想い……あなたと一緒に見た『ダイヤモンドダスト』忘れるわけなんて無い、だってあたしの気持ちはあの時と変わらない……ううん、あたしはあの時以上にあなたのことが大好きだから!」
思わず旦那に抱きつく、そうして暖かなあなたの唇があたしの唇に重なろうとしたとき。
「フミィ〜」
思わず二人の目が開かれ、やがて苦笑いがどちらからとも無くおこる。
「オッパイの時間ね?」
温子が離れると、旦那はちょっと残念そうな顔をしていた、その顔がまたおかしく温子は吹き出してしまう。
あなたは今度、今は赤ちゃんが第一よ? ゴメンね。
「命名『北斗』と『温海』……へへ、どうだ?」
お世辞にもあまり広くない我が家に、ベビーベッドが二つ並び、その枕元には半紙にあまり上手では無い文字でそう書かれている。
「お兄ちゃん、どういう意味なの?」
旦那の妹である知果ちゃんが、ベッドを覗き込みながら質問してくる。
「ウン、北斗と言うのは知っての通り『北斗七星』からとったんだ、『大きな空に輝く星のように元気いっぱいに』と言う意味、そうして『温海』は温子の温から一文字貰って『海のように優しい娘になってもらいたい』と言う意味だよ」
自慢げな旦那は知果の頭をぽんぽんと叩きながら言う。
「空と海ね? 共に大きくっていいじゃない、この北海道のように大きな心を持った子供たちに育ってもらえるといいわね?」
お義母さんの麻紀はそう言いながら、早苗と共に煮物を作っている。
「ウン、いい雄大でいい名前だ」
お義父さんの勇作は、源さんと意気投合したらしく一緒にビールを注ぎあっている。
「あとはお嬢のはねっかえり癖が温海ちゃんに受け継がれないことを祈るだけだな?」
キヒヒ、と源さんはビールを飲みながら意地の悪い顔を向けてくる。
「ちょっとぉ、どういう意味よ源さん!」
温子の声に、北斗が反応したようにぐずり始める。
「温子あんまり大きな声を出すなよ、北斗が起きちゃうよ?」
あうぅ、味方だと想っていた旦那にまでそう言われるとは……トホホ。
「みんな寝たの?」
双子の寝る部屋の隣で一人グラスを傾ける旦那に声をかけながら温子は、洗った髪の毛をタオルで拭きながら双子の様子を見る。
「ウン、親父は酔っ払ってぐっすり、知果と麻紀さんはお腹いっぱいって満足したような顔をしていたよ」
いつの間にか宴会になってしまった双子の命名だったけれど、なんとなく楽しかった。
「ほら、飲むだろ?」
旦那があのグラスにビールを注いでくれる。
「ウン!」
グラスの中でビールの炭酸の泡がはじける様子は、あの時見た煌きにも似ているような気がして思わず見つめてしまう。
「新しい家族に……乾杯」
旦那はそう言いながらグラスを合わせてくる。
「ウン、それに……」
旦那の顔に自分の顔を近づけ、そっと唇に触れる。
「あたしたちの想い出にも……乾杯」
驚いた顔をしている旦那の事をグラスを通してみると、その様子はあの時、二人でダイヤモンドダストを見た時のように煌いているようにも見えた。
「今度は北斗と温海も連れて一緒に見に行こうね?」
温子の呟きに旦那は優しく頷く。
今までは二人の想い出だったダイヤモンドダスト、今度は四人で……家族の想い出にしたいね、あなた。
Fin